弥栄橋付近

里山カフェHAKUは山口県岩国市の山間部に位置しています。
がんね栗はこの雄大な土地で育ち、その威風堂々とした形状はこの地域の雰囲気そのものです。
がんね栗を加工した食品のネット販売を2020年2月に開始します。
里山カフェHAKUはレストランや民泊も併設しています。
ぜひ、美和町をお楽しみください。
近辺の楽しめる場所を案内いたします。

弥栄橋

 岩国市美和町と大竹市の県境に架かる弥栄大橋は、名勝弥栄峡と名峰白滝山の絶景をバックに横たわる雄大な大橋である。
 全長560メートル、幅10、4メートル、橋面から湖底まで90メートルあり、使用された鋼材の総量は2600トンに及んでいる。
 又この橋は特にダムの景観を考慮して、単純優美に造形されており、日本で屈指の長大鋼斜張橋となっている。

弥栄湖の巨大噴水

 美和パークゴルフ場下の湖面にあり、弥栄ダムの水質保全の為の装置である。
 水面下10メートル程度の水温の低い水を吸い上げて、最高約30メートル、直径約50メートルの範囲に、一時間雨量300ミリメートル、程度に相当する散水を行うものである。
このような噴水式の水質保全装置は、中国地方のダムでは初の試みである。

弥栄ダム

 弥栄ダムは昭和48年から建設に着手、平成3年3月に完成したものである。
 それまで小瀬川は、昭和26年のルース台風など多くの洪水による被害や、しばしば渇水による被害も発生していた。
 この洪水や渇水の被害を防ぎ水を有効に利用するために、弥栄ダムは建設されたもので調査からダムの完成までに、20年の歳月と約1100億円の巨費がかけられている。
 堰堤の高さ120メートル、長さ540メートルのダムに、301平方キロメートルから集まった水を、1億1200万立方メートル貯水出来るものである。
 弥栄ダムの完成により、洪水や渇水への対策だけでなく、山口県東部の柳井市や大島郡などの水不足地帯への、水の供給にも大きな役割を果たすことが出来るようになった。

美和パークゴルフ場

 美和パークゴルフ場は、西日本初十八ホールの本格的なパークゴルフ専用コースである。
 簡単なゴルフの原点のような競技で、年齢、性別、経験を問わず、誰でも気軽に楽しめる。
 美和の新名所、弥栄湖の巨大噴水や弥栄大橋の傍で、山紫水明の風景を愛でながら、緑の芝生の上で展開する競技は、一度経験すると病みつきになる程の楽しさを感じるという。
 日曜祝祭日は予約した方が確実に競技出来る。
 (美和パークゴルフ場 tel0827ー96ー0569)

弥栄湖安穏地蔵菩薩

 この地蔵菩薩は、弥栄ダムの完成を記念して安置され、ダムの平穏と治水、地域の発展などを祈願したものである。
 岩国市美和町側の遊歩道に通じる道を2キロメートル入った浄心広場の西側に、大型の合掌地蔵と少し小型の六地蔵がダムを見下ろすように並んでいる。
 参拝の場所は、名勝弥栄峡の中心付近であり、白滝山と飯谷山を望む形勝は正に絶景である。
 春秋の緑と紅葉、その中に響きわたる鳥の鳴き声、紺碧の空に映える山容などは、心を洗われるように美しく、いつまでも去り難くなるほど魅力的な場所である。

白滝山

 白滝山は美和町岸根にあり、海抜約458メートルで花崗岩の巨大な岩塊ともいえる。
 山口県百名山の一つであり町内外の多くの人々にこよなく愛されている山である。
 古来から豪雨のとき、削りとったような急峻な岩肌を、白く輝いて滝のように流れる水の様子を見て、いつしか白滝山と呼ばれるようになったという。
 「岩国市誌」や「日本城郭大系」によれば、往古ここに山城があり、筑紫大炊頭という城主がいたとのこと、又あるとき四方の峰々に点滅する光を大敵の襲来と見誤り、狼狽して退去しようとし、後ろの急峻な谷に多くの城兵が落ちて死亡したため、現在でも「千人崩れ」と呼ばれている場所がある。

魚釣り天国 弥栄湖

 弥栄湖には豊富な魚類が生息しており、釣り天国として人気が高くなっている。
 広島方面からの釣り人が多く、地元や山口県内の人々には案外な盲点となっている。
 釣りクラブの中にはここで競技会をやっているところもある。
 小中学生や素人の釣りに適しており、弥栄遊歩道添いの各ポイントから、弥栄キャンプ場下の屏風岩付近までが良いという人もいる。

弥栄遊歩道

 弥栄湖添いの美和町側は、安穏地蔵の広場まで車の乗り入れが可能である。
 この広場からキャンプ場下までの約2、7キロメートルが遊歩道となっており車の通行は出来ない。
 道は平坦で坂がないので家族ぐるみの散策に適している。
 サンチャロウまつりの一万歩ラリーのコースである。
 削りとったように急峻な左右の山々、奇岩怪石の連なる周辺の風景、四季を通じて変化に富む弥栄峡の渓谷美を心ゆくまで楽しむ事が出来る健康づくりの道である。

お大師山八十八か所

 岩国市美和町岸根、白滝山の隣接地に「八十八か所」のある山があり、この山を「お大師山」と呼んでいる。
 昔この山にある八十八か所の仏像を、参拝の便を良くするため麓の岸根集落に持ち帰ったことがある、すると度々火災が起こったり、伝染病が多く発生した。
 地域の人々は、これは仏像を移動させたためと考え、また現在地に戻し大切に安置した。
 その後は集落に災害も起こらず、霊験あらたかな八十八か所として、多くの人々の信仰を集め大切に護持されている。
近年は道も整備され参拝が易しくなった。天然の岩陰を巧みに利用して安置された仏像が次々と連なり、狭い岩間をくぐり抜ける難所もあり興味もつきない。
一番から八十八番まで三十分余りでお参り出来るミニコースである。

蛇喰い岩

 小瀬川本流と玖島川の合流地点で発達した甌穴現象を「蛇喰い岩」と呼んでいる。
 甌穴現象は花崗岩への発生が多く、流水により石塊が岩盤上で円運動を長期間くり返すうちに、穴をあけるもので「木曾の寝覚めの床」が全国的に有名である。
 ここの甌穴現象は発達の終末期であり、崩壊寸前の様相を呈しているものが多い。
 昔の人達はこの現象が理解出来ず、大蛇によって喰い空けられたものと考え「蛇喰い岩」と呼んだものであろう。
 下流の亀岩付近には小さな甌穴が沢山みられる。

九郎と半左衛門の墓

 釜が原の栄福寺の境内に、九郎衛門と半左衛門の二人を弔った墓がある。
 これは貞享3年(1686)旱魃で、秋の実りが非常に悪かったが、当地に年貢減免の沙汰はなく、農民の苦痛は見るにしのび難いものであった。
 この様子を見て名主の半左衛門とその子九郎衛門は、農民の苦衷を時の藩主に直訴した。
 このために二人は岩国の牢につながれ、やがて貞享4年3月釜が原で処刑されることになった。
 半左衛門父子の直訴の事情が藩主に認められ、死一等を減ぜられることとなり使者がたった。
 しかしその使者が黒沢まで来て庄屋の家に一泊したため、処刑に間に合わず刑は執行されていた。
 名主半左衛門は処刑される前、羽織、袴に威儀を正して「私ら二人は散っても行くが、後に咲く花枝折るな」、という辞世を残し地域の隆盛を願ったという。
 この地域の人は彼らの心情を偲び、この永福寺で鎮魂の祈りを絶やすことなく今日に至っている。
 なおこの永福寺は四境の役の際、北門団も屯営所として安芸国境を望む長州軍の拠点の一つとなっていた。